昭和44年10月31日 夜の御理解
月末ともなりますと、ここは特に、商売人の方が多いですから、まあようも今月はこの、まあ、出来ん出来んと言いながら、まあどうやらこうやら締めくくりが出来ましたと、または本当に何時もの事ながら、間違いのない神様の働きの中に今月も、終わらせて頂きましたといったようなお届けが、非常に多くなります。今晩もやはり、原さんのお届けを聞かして頂いても、田中さんの、お話しを頂きましても。
本当にもう日々が、またはその月々の、その締めくくりがです。何とはなしに、おかげと思わなければ、おられないほどしに、こうはっきりと、キチッと頂けれるとこう、ですから私は思うんですけれども、それも大変有り難いおかげですけれども、それがもうもう少しそのじゅんたくな、まあ現在の、合楽の御信心を頂いておる、方達は、殆どがそうだとこう思うんです。
ですから、ここに一段と信心を進めさして頂いて、そのように神様の間違いなさというものを、身に付けさして頂いて、分からして頂いて、そして、もう少し、本当にゆとりのある、誰が見ても「はぁ金光様の御信心頂いておられるから、おかげを受けておられる」と、喜びいっぱいの雰囲気が、私共の家庭の中から、生まれてくるようなおかげを頂きたいとこう思います。
先ほども、二番目の娘の愛子が、お届けしておりますのに、早くお届けせねばせねばと思いながら、それが出けておらなかったけれど、もう、こう2、3日特にそれが、ひどいからと言ってお届けしております、それに、もう、最近は、休む時に目をつぶるのが、眠るのが恐いようにあると、というのはですね、もうそのままずうっと意識がなくなって行くんだそうです、そしてはぁもうこれでっ、これでしまえる、もうこれでしまえるというような思いがする。
まあ始めの間はね、はぁそれでも、お父さん、または親先生の祈りの中に、こうしてお国替えのおかげを頂くのであるから、有り難いなぁというその、始めは気持ちだったけれども、最近はそれこそ、少し恐くなったとこう言うのです、「私もそういうことが以前はあったよ」と言うてお話したことでしたけれども、私共がですね、そういう例えばまあせっぱ詰まったと言うか、ところからおかげを受けて初めて「はぁ今日もおかげを頂いた」とか、「今月もおかげを頂いた」という実感が頂けれる、私共でも。
これがお国替えの状態だといったような意味で御理解頂きながらですね、もおっと自分がこうあの世に行っておるような、気が遠うなるようなお知らせを、これはもう二十年前の頃は、良く頂いておりました、ですからそこから生まれてくるものはですね、神様のおかげを頂かなければ、お生かしのおかげを頂いておるのは当たり前のようにあるけれども、お生かしのおかげを頂いておる。
今日例えばうんならここに目が覚めたということだけでも、有り難いのだという実感がですね、本当に出けた時、神様は、また例えば愛子の場合、おかげを頂かして下さるだろう、そういう意味合いで神様がもう非常に切迫した身近な、おかげ、働きを愛子の上に見せておられるなということを感じます、金銭の場合でもそうです、金銭のお繰り合わせを願うて願うて、はぁようやくやっとかっとであるけれども。
まあその都度都度にはおかげを受けておるというのは。そのせっぱ詰まったそういうのなの、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。それがよいようにありあまるようなおかげを頂いても、その気持ちがこれから頂けれるようになったら、もう有り難いとこう思う、ところがその健康にあまり恵まれすぎたり、または金銭の上にでもありあまるようにおかげを頂くと。
もういかにも、その、生きておる事の喜びなどは、ほんに金銭に不自由しないような事はもう当たり前のようになって、神恩報謝の心が薄くなる、そこの辺に神様の、願いと言うか、神様の思いというのがかけられておるのじゃなかろうかとこう思います。私は今朝から、朝のあの御理解を頂いてから、いつもまあ、今日ほどそれを、何時も思うんですけれども、思ったことなかったんですけれど。
御理解というのはなかなか、これを本当の神意を分かってもらうということは難しいなぁということでした、今日はあの、なんですかね、「天地日月の心になることかんようなり」というあの御理解ですかね、私が今朝から御心眼に頂かせてもらう、御広前のすみずみにです、鍵の手に俵が積み上げてある、お知らせを頂いた。そのことからそれと関連しての御理解であった。
実意ということは、いつも頂くように私共の心から、わがままとか横着を取り外して行く、稽古をすることが実意と、ところが丁寧という事に対する、説明があまり頂かなかったんです、ところが今日の、御理解を頂いてその辺がはっきり分かった、丁寧というのは心配りだということであった、丁寧ということはもう隅から隅まで、例えば十のものであるならば、ね、もう八つぐらいでもう後は、良か良かと言った様な事では、実意丁寧にならないのだと。
その後の二つも、いやもっと十二分なという行き届き方があるんだと、心配りなんだと、心配がある、心配があるなら心を配れ、心配はなくなると言った様な御理解でしたよね、だからその例話として、私が昨日豊美の荷物が出る時に、皆一部の人達が集まっただけで、昨日のあの忙しい中に、お手伝いに来なかった事をとり上げて申しました、そうしたら丁度ここで、お届けをされる方が、みんなそれを言われるのに私は、恐縮したりそのこうすると、どこが悪かったじゃろかと、思うたり致しましたんですよ。
私例えば繁雄さんの例を取って申しましたが、繁雄さんの悪口、悪う言うたのじゃない皆が、お見送りに出て来なかったとか、または一日御用を(?)に来なかったと言った様なけちなこっちゃぁない、私が皆さんに分かって頂きたいのは、どこまでも丁寧という事を分かって頂きたいばっかりだったんです、それで皆がここで言われる事がです。「ほんなこて昨日は、思うちゃおりましたばってん御無礼しました。」
とか「うっかりもうコロッと忘れておりました」とかその言い訳ばぁかりでした。今日は本当に、あの御理解の後に、だから私そげなことを聞こうとか、そげんせねばならんといったようなことじゃない、だからそんな、人の一部の人は、「そげん大坪の家の個人の事にそげん信者が一々出らんで良かろうもん」とさえ思うた人さえあったのじゃなかろうかと私は思うくらいだった。
そのことを聞いてから、それを分かってもらいたいのじゃない、丁寧とはこの様に行き届くことだということを心配りをすることだということを聞いてもらいたかったんです。ですから、実意とは私共の心から愈々わがままとか横着を取り除いて行く事に精進さして貰い、しかも心配りもさして貰い隅、隅々の方をむしろ大切にすると言った様な丁寧さを持って、実意丁寧と言うのだと。
しかも「実意丁寧神信心」と教祖様は続けておられますがです、だからそういう精進をさして頂く心で神に向かうのが信心だということになる、実意丁寧神信心。だからそういう信心をね、日々の信心のモットウとしてです、私共が信心を進めて行くならばです、例えばもう本当に、神様はですあの手この手を持って、神様の働きの実感を分からせようとなさっておられるならです。
月末になってみると、きちっとこう出けて行く、行くとか、日々が本当にお縋りしなければおられない、それが神様のおかげでキチッと出けて行くとかという、おかげのもう一つ向こうにです、それこそ、言うなら有り余った中にです、健康でも、なら愛子の場合、毎日毎日死んだ思いせにゃなららんというのではなくてです。毎日毎日が健康な喜びを謳歌しながらです、称えさして頂きながらです。
天地のお恵みを称えさしてもらい、天地の御恩徳を称えさして頂きながら、日々信心の稽古が出来るということが願い、神様のだからその願いを実感して分からして頂くためにはです、今朝からの御理解、実意丁寧神信心を、モットウとしての生き方にならして頂いたら。神様もご安心が出来られて、健康を下さるであろう、お金ならお金、経済なら経済の上にでも、言わばゆとりのあるお繰り合わせを頂けるに違いがない。
そこのところが身に付くか付かないかということが問題だと思うんですよね、ですから、今朝から頂きますその実意丁寧神信心と、というのはです、そういう例え実意さを持って、例えばそういう心配り、丁寧さを持って、日々の御用。私は今日、もう御広前の、それこそ隅々にそれを感じたんですけれども、もう、はぁ今日は朝の御理解が効いてるなと、御広前全体に、御広前にまいりましても。
勝手の方へまいりましても、それを感じました、もういつもこうあらなきゃいけないなと、本当に今日合楽の御広前の、この雰囲気全体がですね、そういう今日の丁寧を、皆さんがモットウにして、今日は過ごされたんだなぁという風な感じを受けました、ですから御理解がそのように生きてこなければいけません。それが生きてくると身に付かなければいけん、信心さして頂く者のあり方、お道の信心さして頂く者の生き方、私共の生き方の中から、わがまま横着を取り除く、取り除いて行く精進。
同時に私共の心を配り。それこそ十二分にというような心配り、隅々にまで、「もうこんくらいな事は良か良か」よいったようなことでは、そこの隅々からおかげが漏ってしまうんだと、今朝から頂いたですもんね、だからそういう心を持って神に向かう、それが神信心、お道で言う、実意丁寧神信心、そういうものが身に付く時に、健康の上にも全てのおかげの上に、おかげが身に付いてくることを私は確信いたしますですね。
どうぞ。